田峰観音の奉納歌舞伎は、設楽町田峯地域の住人たちによって代々演じられ続けてきました。
この奉納歌舞伎の始まりは江戸時代の霊験伝説からだと伝えられています。
(この奉納歌舞伎は、)焼失した日光寺再建時の徳川幕府御用林無断伐採が発覚し、重罪を恐れた住民らが観音様に「祭りには必ず芝居を奉納しますので助けてほしい」と願ったところ、代官が訪れた日に大雪が降って御用林山に入れず、罪人を出さなかったという言い伝えにより始まりました。
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田峰観音の奉納歌舞伎は、設楽町田峯地域の住人たちによって代々演じられ続けてきました。
この奉納歌舞伎の始まりは江戸時代の霊験伝説からだと伝えられています。
(この奉納歌舞伎は、)焼失した日光寺再建時の徳川幕府御用林無断伐採が発覚し、重罪を恐れた住民らが観音様に「祭りには必ず芝居を奉納しますので助けてほしい」と願ったところ、代官が訪れた日に大雪が降って御用林山に入れず、罪人を出さなかったという言い伝えにより始まりました。
奉納歌舞伎は徳川四代将軍家綱の頃に始まりました。
天保十二年、老中水野忠邦の倹約令により、一時は舞台を壊しましたが、奉納はひそかに継続されていました。
その後、舞台は江戸時代末期に再建されました。
明治から大正の頃は、日清・日露戦争や額田県通達による地芝居停止などの様々な制約により、地芝居よりも買芝居(玄人による芝居)が中心であったと推察されています。
大正後期から第二次世界大戦前後までは買芝居で奉納歌舞伎を続けていました。
昭和三十年代には買芝居あり地芝居ありの状況が続いていましたが、徐々に旅廻りの歌舞伎役者が減少したこともあり、買芝居の困難な時代を迎えることになります。
昭和三十八年頃から愛好家による地芝居が復活しましたが、役者不足や若者の不参加という大きな問題を抱えていました。
そこで地芝居の愛好家たちは、他町村の人たちとの共演やそれぞれの土地での競演、若者たちによる上演や子ども歌舞伎の再興などいろいろな形で奉納歌舞伎を盛り上げてきました。
このように、田峯の人々は伝統である奉納歌舞伎を後世に残すために数多くの努力をしてきたのです。
昭和五十年頃に当時の田峯小学校の校長先生が、歌舞伎の所作、三味線、浄瑠璃のリズム感は現在の子どもたちにとって国語や音楽の勉強に大いに役立つだろうと、学芸会に歌舞伎を取り入れました。
これをきっかけに、子ども歌舞伎の黄金期が再到来しました。
小学校に入学する年齢の子どもたちが全員三番叟の面箱持ちとして舞台に上がり、簡単な踊りと自己紹介をするという無邪気な姿は、現在も人気の的となっています。
この成功を踏み台に、毎年アイデアを取り入れていけば過去に合った地狂言の危機は乗り越えられるという確信を得ることとなりました。
昭和六十一年、子ども歌舞伎は「愛知県芸術文化選奨文化奨励賞」を受賞しました。
この賞は、芸術・文化の各方面で顕著な業績をあげたり、将来を嘱望される個人あるいは団体・学校に贈られるものです。
受賞理由は「田峯に伝わる歌舞伎の伝承に取り組み、その並々ならぬ稽古の結果を発表し、それを通じて地域の人々との間に郷土を愛する心を育み、愛知県の教育文化の振興に貢献した」というものでした。
「可愛い」が勝っていた子ども歌舞伎が、この頃からは「伝統芸能」として評価されるようになっていきました。
子ども歌舞伎の成長とともに、子ども歌舞伎出身の若者が青年歌舞伎に入ってくるようにもなりました。
その効果は大きく、マンネリ化しそうな雰囲気に新風を吹き込みました。
この灯を絶やすことなく次代に引き継ぐのは、今を生きる私たちの使命だと思っています。
伝統を守りつつ時代とともに変化し続ける奉納歌舞伎を、ぜひ田峰観音 歌舞伎舞台でご覧ください。